2017.09.21 参加者の声

音楽を学ぶことと療法とのあいだ〜アンカヴァーリング・ザ・ボイスと 「音楽を描く」

浮遊したあこがれ

時間軸の中に生きている音楽にじかに触れるようなつもりで、
クレヨンや色鉛筆で動線を描く、という私がやっているワーク。
それは、個々人の体験を大切にし、きく、ということを通して、
感覚の広がりや深まりへの気付きによって音楽へ分け入っていく作業だ。
そしてその体験の先には西洋の音楽の身体感覚も伴った理解による実感がある。

そこにはかなりの重量感もあると思うのだけれど、けれども、何はともあれ、その人が音楽に触れたいというシンプルな思いからしかはじまらない。

シンプルな思いは、ただただ浮遊する憧れであるかもしれない。

浮遊する憧れさえ捨てなければ、「音楽を描く」という仕事はなにがしか、その人に役に立ってくれるものになっていくはずだと思う。

浮遊したあこがれ・・・そこには、たくさんの可能性を秘められているのだけれど、ごくごく普通でそして、でもなぜかとてもそれは近くて遠い。

大人はとくに、そのゼロが難しく、あこがれはいつの間にか心のどこかでコロンと落っこちて、浮遊することも忘れているかもしれない。けれど、もしその、落っこちてしまったあこがれを再び 浮き上がらせるものがあったとしたら・・・

アンカヴァーリング・ザ・ヴォイスとの再会

ドイツとフィンランドでアンカヴァーリング・ザ・ヴォイスを学んでこられ、現在歌唱療法士というお仕事をされている、平井久仁子さんから私のレッスンの受講希望のお電話を頂いた時に、私は是非ご飯を一緒に食べましょう!とお誘いした。

・・というのが、かれこれ10年ほど前に、一度フィンランドから来られたというアンカヴァーリング・ザ・ヴォイスの指導者のレッスンを 一度だけ受けた事があり、それが深く印象に残っていたということもあったからだ。

ここで、アンカヴァーリング・ザ・ヴォイスをざっと紹介。アンカヴァーリング・ザ・ヴォイス(略して アンカヴァ)は「声の覆いを取る」という意味。オペラ歌手だったヴェルべックさんが、声が出なくなり、そこから学び、さらにシュタイナーにアドヴァイスを受け、発展していった、ということであるそうな・・詳しくは 平井さんのとっても素敵なHPを御覧くださいませ。

アンカヴァーリング・ザ・ヴォイスとは

私が10ほど前にレッスンを受けた時、直ぐすごく良くなった、というようなものではなく、これはとても良い方向を向いている、という印象が残っていた。
扱っているものはとても微細なものだった。
そして、その印象は、ずっと変わらず、何かの折に・・それはうただけでなく、ピアノの奏法を模索するときとか、ワークで扱う他の楽器をされている方を観察するときにも・・・度々思い出すものだから、忘れることなく私の中に残っている。
”覆いを取り除く”というのは、とても良い表現で、他に言い換えられることばはきっとないな、と思う。

ヴェルべックに深い印象を残したルドルフ・シュタイナー。
その彼が
”教育はすべて治療教育だ”と言ったというのをずっと前にどこかで読んだことがあって、それが、ここで重なってくる。

お昼ごはんを頂いたりしながら、平井さんからは、創始者のヴェルべックが対処的なテキストを残さなかったこことを教えていただいた。
マニュアル化できないものを伝え、受け取るというのはとてもむずかしいことだと思う。弟子が残したレッスンの記録には、そのレッスンを受けた具体的な人の名前が書かれていて、それは一回一回のレッスンが唯一無二のものだったことを伺わせる。

自分自身が、自分を受け入れ、慈しみ、再び浮き上がるための、声のレッスン。
平井さんがされているのは、そういうお仕事なんだと思う。

音楽教育と療法とのあいだ

私は音楽というのは、聴き方を広げ深めることが一番の学習だと思っている。そして、音楽は学ぶことによっていくらでも深まっていく事ができる。
音楽を描く、という講座は 基本的に学習なんです。

でも、学習・・つまりきくことを育てるプロセスに於いて、人は何か治癒的な出来事を経る必要があることがあって、それはメンタルに触れるということではなくて、何かもっと微細な出来事で・・・みたいなことを私はいつも思うけれど、いかんせん私自身があまりにややこしすぎて、消化も昇華もままならないままで、一向に自分のゼロ地点など見えてこない人なんだが。

平井さんのワークをして心を動かされたのは、無心ってこういうことなんだなあということでした。


写真は東京から帰りの飛行機の中から撮った初秋の空です。