ものの質を体感に捉える、それを音楽の発想標語になぞらえてみる
物質界の肌理(テクスチュア)
何かが動いていると、たまらなくなる。
風といっしょに、猫じゃらしをなでる、気になる。
カマキリのあかちゃん。葵のすけた瑞々しい花びらのしとね
そのギザギザの小さな小さな足の突起がアフォードする世界
石。
河原で重層的な響きを放つなめらかで冷たくて、硬い。
6月の田んぼ。稲はまだ小さくて、光が田んぼを抜ける
人工物と自然。水と鉱物。対比。時間のプロセス
見えてくるもの、
きこえてくるもの。
音楽教育に足りないもの
楽譜には、発想標語、というのが書き込まれている。
dolce(ドルチェ・柔らかに 愛らしく)
animato(アニマート・活気をもって)
capriccioso(カプリチオーゾ・気ままに)
fwroce(フェローチェ・野性的に激しく)
leggiero(レジェロ・軽く)
maestoso(マエストーソ・威厳を持って)
misterioso(ミステリオーソ・神秘的に)
pastorale (パストラーレ・牧歌風に)
risoluto(リゾルト・決然と)
scherzando(スケルツァンド・戯れるように)
などなど
この春に、元生徒で金沢の美術大学で学んでいるMくんのグループ展に行ってきたときのこと。
たとえば「蟹」でポートフォリオ(作品集)を作り上げる、という課題に取り組んでいたり、
質の違うジャンルを同じ土俵に乗せて発想し表現し、作品に仕上げていく、という学び方に感心したと同時に、音楽大学ではなぜこれを何年もかけてやってくれないんだろう、と思った。
そこで鍛えられていくもの。
音楽をやっている人間が、本来向き合わないといけない場所、なんじゃないかなー。
と私は思う。
こういうのはセンスの問題、とあまりに簡単に片付けられている気がするけれど、美大ではやってるわけだからね。それは、習うものではないかもしれないが、いくらでも分け入っていける分野だと思うし、実に様々なところでそれは生きてくるはずだ。
この記事を書く前に、一つの写真に一つの発想標語を割り当てていこうかとも思ったけれどそれはやめた。なぜなら、個々人が感じる、ということは、まずダイレクトに何かを感じて、そうして質に転じていく、それを表出する際に、言語という人と人がやり取りする道具をつかうのだから。
写真って面白いなあっていつも思うのが、写真なのに、感じているものが映る。感じているものを写したいとおもってるからか。
ほら、こんな、これ。
それ自体はプリントされてはいない。けど、そこにある。
届いているかなー。共有できたらうれしいなあ。
心に質を生み出していくことが、きっとその人の豊かさにになる。
豊かさが音楽になる。そうであってほしい。
音楽を描く’はその着眼のもとにある。