講師のための毎日のレッスンの伴奏法が必要!と思う。
声楽や他の楽器のための伴奏法というのはきくけれども、私達が毎日生徒の隣でやっている、レッスンの時の伴奏法というのは、あまり聞いたことがありません。でも、私は、これ、相当にレッスンの「かなめ」で、そのための伴奏法の研究は重要なのでははないかと思っています。
何故、レッスンのための伴奏法が必要か
大人の演奏家、愛好家にとって、”誰と”セッションするか、というのは、決してどうでもいい話ではないはずですね。生徒にとって、先生がよいパートナーであるかどうか、も、同じだと思う、ということが、一つ。自分の外の音楽と音楽を共有することは、聴き方を広げる大事な要素です。
もう一つは、伴奏が指導の一環として、時にことば以上のちからを発揮し、そして時には、伴奏が有害に働くことも往々にしてあり得ること、だからです。生徒の自発性を促すことも、自発性を削いでいくことも、おなじ伴奏のその演奏の違いによって、ある。伴奏は、もうほとんどその講師の音楽性や姿勢そのものに関わってくる、それくらい大きな意味があるものだと思います。
だから、逆に伴奏のことを考えるというのは、 レッスンをより深いものにしていく方法を見つけていく方法にもなっていくと思います。
伴奏の方法はどんなものがあるか
- テキストに載っている伴奏をする
- 右手・左手とかメロディと伴奏などを生徒と分担して演奏する。
- 即興でコードやベースラインをつけて伴奏する
- あと、うちはピアノが一台しかないのですが、2台あると、また違うバリエーションがあるかもしれません。
- あと、これも・・・・・伴奏しない、という選択
ほかにもあるかな?うちはピアノ1台を生徒と共有するかたちでやるけれど、2台あると、また違ってくるかもしれないですね。
伴奏をしないレッスン、というのは、私は考えられなくて、私はとにかく生徒とでもセッションが楽しいです。レッスンの中で、音楽を詰め込みではなく楽しみとしてアウトプットする時間は、生徒の生活の中での潤いにもなっていってるのじゃないかなと思います。ただ、そういえば、こんなに伴奏してる先生に私自身はであったことがないなあ。
伴奏の目的とアプローチ
- 生徒の不得手な部分(例えば、リズム感)を支える目的のときと、何かを誘導する時は違う
- 生徒の演奏を見栄えよくする伴奏もある。それはパフォーマンスとしての演奏、ということになる。やった気になる、伴奏。それをするかしないか、という選択。
- 語りすぎない。コショウを一振り、くらいでいいときも(かなり)あって、伴奏を間引く必要性についても、考えておく
- もちろん、講師の伴奏の基礎知識、レッスンの現場ではそーんなに大変な伴奏は必要なくて、ほんとに基礎の基礎、コードも3和音+幾つかその場で応用すればなんとかなるもので、あと、転調の体感がつかめていれば、十分。でもそのくらいは、いつでもできるようにしておく。
- 生徒優先か、先生優先か、全くのセッションか。
- 音量や、アーティキュレーション
- 生徒の右につくか。左につくか。
伴奏の方法いかんによっては、 逆に生徒が自分の音楽の構築をさまたげるような立場になって、先生の言いなりの演奏だったり、依存的になったり、先生の演奏が威圧的で辛かったり、なんてことだってある。
生徒本人が何かに気付くことが毎日のレッスンの中では重要で、伴奏することによって、できないことをほじくっても、穴埋めしてもいけないとおもっています。このバランスの中で、伴奏する・・・もう、それ自体がコミュニケーションであるし、音楽・芸術なんだと、私は思っています。
録音された伴奏はありか?
私もたまーに使います。ただ、それだけになるのはぜ−ったいもったいないです。人がちゃんといるのですから。生きた人間のやりとりのほうが得るものは大きいはずです。なにを得るか、ですね。
レッスンの場での伴奏と「音楽を描く」
その考えの中で、生まれてきたのが「音楽を描く」で、そう、最初は、生徒と一緒に歌いながら描いていて、今から思えばあれは伴奏の一つの方法でした。講座の中で、出会ってきた出来事や音楽は結局、教室にフィードバックしていて、普段のレッスンのピアノの伴奏をするときにも、大事なものが明確になってきているのは、ほんとうに助かっていて、レッスンそのものが楽しい毎日です。(昔は、もっと重荷だった)
結局、伴奏だろうと、music drawing(音楽を描く)だろうと媒体はなんでもいいわけで、その場の選択肢は多い方がいい。大事なのは目的にかなう方法を自分の中に持っておく、ということだと思います。描く、という方法も方法ありきで使ったって意味はない。頭の中で模索していくのは、ただただ、今、生徒の次の気づきのために、どんな隙間を空けてあげるか、だなと思っています。
ただ、音楽を描く講座と 教室の両方をやってきてみて思うのは、音楽を描く方法を模索することによって、講師である私自身の伴奏の質が変わってきている、ということです。
結局生徒のために、と思ってやることは自分を育ててくれるし、自分が育たないと、生徒にも反映していかない。遠回りのようですが、ま、生徒と自分の一挙両得だったなと思います。