目の見えない人の見る行為と音楽を見ること(「目の見えない人は世界をどうみているのか」を読んで)
見えることから隠されているもの
音楽をやっている人間として、目が見えないという感覚世界に対し少し人と違う関心をもっているかもしれない・・・
目の見える私達は、世界を判断するためにかなりの情報を目によって得ている。
けれど、目は視界から隠されたものを観ることはできない。
例えば、あたかも大理石のような壁紙を貼り付けた合板に、私たちはあっさりと騙される。
けれど、その壁を、コンコンと叩いてみたらどうだろう?
聴覚は目とは違う情報をもってくる。
壁から聞こえてくる音から、耳はしっかりと合板の薄っぺらさをキャッチする。なあんだ、なんて思った途端、その壁はもう合板にしか見えなくなったりする。
視覚世界は私にとって、世界を把握するのになくてはならない感覚であると同時に、そのインパクトの強さに惑わされ、欺かれる感覚だ。だから、いつも聴覚や時には嗅覚、触覚を結びつけながら、世界を立体的に包括的に捉えたいものだと思っている。
ならば、いっそ、視覚、という感覚を取り払ってしまったらどうだろう。
それは、何かが足りない世界なのか。
『目の見えない人は世界をどう見ているか』の見る世界
つい私たちは「目の見えない人」の感覚を自分の感覚から視覚を取り除いた状態を思い描いて、即座に感覚の欠けをイメージする。でも、それは、あくまで見える人からの想像でしかない。もしかしたら、視覚障害者は健常者とは少し違う感覚で世界を捉えているかもしれない。だとしたら、その壁を取り払って、見えない世界を学んでみても良いと思うのだ。
「目の見えない人は世界をどう見ているか」という本では、見える人の感覚と見えない人の感覚を4本足の椅子と3本足の椅子に例えている。
4本足から考えると 3本足というのは欠けがある、だからサポートが必要、と考える。サポートは必要なときもあるけれども、そればっかりではない。3本足は3本足のバランスをもって立っている。4本足とは違うバランスを持っている。それは、4本足とは違った体験であり、その違いを 福祉という観点ではなく、生物学的に 味わってみよう、と。
”福祉という観点ではなく生物学的に”
おお、新しい視点。
そうすると聴覚オタクの私などは、見えない世界というのに、どこか憧れさえいだいているから、下手をすれば見えない人というのを、欠けというのとは逆の意味て特別視してしまいそうになるけれど、それも見える側からの勝手な押し付けである。
「特別視」ではなく「対等な関係」ですらなく「揺れ動く関係」
と著者は言う。できるだけ先入観を取り除いて、その感覚に近づいてみたい。
見えない世界、というのを生活のレベル、感覚のレベルどちらにおいても、見えない側からの一方的な思い込みではないところで もっと具体的に知ろうとするそのときに、自分自身に開いていく新しい世界。
この本にはそんな体験を呼び起こす事例が沢山あるので、興味のある人は是非。
光文社 (2015-04-16)
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ダイヤログ・イン・ザ・ダーク
さて、音楽のプロセスを今より新鮮に味わっていこう、という「音楽プロセス体験」というワークショップをしている私にとって、この本で最も興味深かったのは、「見えない人の見る行為」だった。
本のタイトルにあるように 見えない人も見ている、と著者は語る。
普段視覚で外界を捉えている人と同じように、彼ら、彼女らはむしろもっと鋭く繊細な感度で、道順や地図や料理のための道具や手順など、見えるかのようにこなしていける。視覚的情報と同じような、全体か関連性を持った地図や時間軸ができているのがこの本からわかった。それは確かにもう「見ている」「見えている」と言ってもいい。でも、それはどんなかんじなんだろう?興味は尽きない。
もう7年以上もまえのことになるが、この本の中に書かれていた「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきた。視覚障害者の案内で、真っ暗闇の中を散歩する、というワークショップで、考えるだけでワクワクしてきて行かずにはおられない。
当時は、東京の場所は忘れたけれど、ビルの地下の階段を降りた会場にあって、そこでたまたま同じ日程で予約していた7人と一緒に、視覚障害者のアテンダーを頼りに、純度100%の暗闇に足を踏み込んだのだった。
最初はただただおっかないばかりだったけれど、だんだんに慣れてくるといろんな物音や人の声がその空間に浮かんできた。居合わせた人たちと鈴の入ったボールを転がしあって遊んだり、会場内の真っ暗な喫茶店でお茶を飲んだり。ここでは目の見える人の方が感覚が欠けている。視覚障害のあるアテンダーさんたちはのびのびしていた。でも、だんだん面白くなってきた。不自由だけれども、人の声がいつもよりうんと「身体と心」を感じさせたし、皮膚感覚が開いてくるのを楽しく感じて、いつまでもここにいて、ここで出会った人たちと話をしていたいと思ったのだった。不思議な感じだった。
視覚のない、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で触れる世界は、欠けどころか、見えている時よりももっと世界が身近でリアルな体験に満ちた世界だったのだ。
音楽を見る
私はたとえばピアノを弾く時、何かを見ている、という感覚がある。
音のいく方向や、明暗、音楽の構造の立体感。
音楽は、目で見ることも、触れることもできない存在だ。
だから、音という媒体を通じて、人は、何かを心に映し出している。
それは目の見えない人が”見る”という行為と似た何かがある気がしてならない。
今、あのダイヤログ・イン・ザ・ダークでの体験を思い出してみると、視覚以外の感覚世界にどっっぷりとつかて、世界を見ようとしていた感じが思い出される。あれは、私が日頃感じている音楽世界に似ている。
どちらかといえば、外に向かって見るのではなく、内側に向かって見る、という感じ。
いわば、暗闇に向かって見る、とでもいうような・・・そうか、見えない人にとっては文字通りなのだが、この暗闇に向かって見るという感じ、音楽をやっていても感じることのような気がする。
それは、投影とも、妄想とも違っていて、確かにリアルを見ようとしているのだし、それはリアルなんだ。
一般的にはそれは「きく」と呼ぶのだが・・
もしかしたら
「目の見えない人は世界をきく」のかもしれない。
ああ、なんだか何が「見る」ということで何が「きく」ということなのかわからなくなってきた。
実は結局同じなんじゃないかな。見ることと聞くこと。
きく、という行為の中には みる、要素も含まれていて、
そもそも、”見る”、も”きく”も、感覚器官が違うことで通路が違うだけなんじゃないか。
確か、仲村雄二郎の「共通感覚論」では、感覚の統合されたものを「共通感覚」センススコムーヌスといい、
これは一人の人の中の連動であると同時に、人と人の間にも通い合う根源的な感覚に付けられた名前だったと記憶している。
見るようにきき、聞くように見る。
感覚の本質的な場所に触れたような気がする。
最後に
視覚を封印した世界は決して閉ざされた世界ではなかった。
むしろ、触覚や聴覚などは外界と境のない感覚世界で、そこに広がった空間、あの、ダイヤログ・イン・ザ・ダークでの体験を私は一生忘れないだろうと思う。