2018.02.05 実感音楽リ論

音楽するのに音楽の知識なんか必要ないんじゃないですか?

問いかけ:

以前、ある方にこんな質問を受けました。

「せんせ、音楽するのに音楽の知識なんかいるんですか?
むしろ、知識ってのは邪魔で、
人の素直な感情や感覚を阻害するんじゃないですかね。」

とっても、ごもっとも、良い質問だと思います。
問いっていうのは、いつでもいいもんだと思っています。
そこからなにか大切な糸口へつながるものですから。

この方の素朴な質問のなかの、「知識が人の感覚や感情を狭めてしまう」、ということ、私も確かにそういう場合もあると思います。

でも、「知る」ことって、そういうことばかりでもないと思うのですよ。

この質問をもうちょっとほりさげてみる

この、「音楽するのに知識は邪魔」というのは、
人の素直な感情や感覚、と、知識を司る頭脳は対立関係になっていて、知識によって人としての生き生きとした音楽が固められてしまう、

身体感覚や感情VS頭脳 という図式が前提にあると思います。

・・・そうすると、喰うか食われるか、みたいな話になってしまいますね、確かに。

それに、そこには、もしかしたら、未知のものに対する「知らない」ことへの不安や、難しいから固まってしまう、という経験なんかもあるかもしれないですね。

でも、知る、っていうのも、人の感情や感覚を通ってやってくるものだったら、それ自体も感覚や感情と同じ生身の体験になります。

身体感覚や感情VS頭脳 という二律背反から どうやって抜け出していくか、それを一緒に考えられたらいいなあ、と私は思うのです。

で、確かに知識で固まってしまうリスクもあるけれども、(そこの自覚も大事と思うのですよ。)でも、音楽理論・楽典に触れるのは、音楽の喜びにつながっていく、一つのかけがえのない方法だと思うのです。私は。でも、そのためにはその人の音楽体験にとって感覚を固めないそのための方法、というのが大事になってきますね。知識ありきで、まる覚えではなくて、方法が必要なんだと思うんです。

*西洋音楽というのはクラシック音楽だけではなくて、ポップスやロックなんかも基本的には同じ音楽理論に基いています。

音楽理論は 音楽の背骨

音楽理論は、作曲家や演奏家が感情のままに溢れ出たものを、後付の理論や分析として解体する、というよく誤解されがちなイメージから抜け出してみて、西洋の音楽に最初っから組み込まれている、いわば背骨ととらえてみたらどうでしょう。

そうすると、理論を紐解くことは、音楽が生きている仕組みに触れていく、ということになります。

また、音楽というのは長い歴史の中で、人の感情をすくい取ってきたもので、その感情の結晶が 理論、とも言えると思うのですよ。そういった、歴史のなかのたくさんの人々の感情の結晶を 自分の表象として自分の中に実らせるために、理論はそのビジョンとビジョンを仲介する 設計図なわけです。時間軸の中の。

音楽に対する具体的な表象がその人の中にあり、それを実音へ変換するために、その人の感覚や身体を通すとき、その音楽は 意味を蓄える実のあるものになります。しっかりと骨格が立ち上がっているからこそ、伝え合えるものですし、それに、考えてみたら、全く音楽理論がないってことはありえもしないはずなんです。楽器というものも、理論が前提でなっているものですから。楽器も音楽理論の結晶が具体化したものの一つです。

音楽、という目に見えないもの、そしてもしかしたら耳にも聞こえないものを、音を通して 人と人の間に行き交えるものにできているのは、そこに、結晶のような理論の骨があるから、なのです。

音楽理論の捉え方・学び方を変える

たしかに、音楽理論って、問題を作って、それを音楽に変換することなく、紙の上で答えを書くことだってできます。音楽不在の 音楽理論、とでもいいましょうか・・でも、そうやって解いた問題が、実際生身の音楽とどう関わっていくのか、本当に大事なのは、そっちです。音楽理論を紐解きながら、正解だけが実りなのではなく、そこに生まれていく実感のほうが実です。100点とっても何も実らないこともあれば、 10点でも、しっかりと手応えがあればいい、そんなもんだと思っています。

そこへ視点をシフトしけば、音楽理論・楽典は、別の次元の学習になっていくはずです。

音楽理論・楽典が実感とともに育っていくことは、その人の中で音楽が花開く土壌が肥えていくということです。

次の記事には、

じゃあ、音楽理論・楽典が実感して身についてくると、どんなよいことがあるか、という話を書いてみたいと思っています。